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2011.05.22 入れない
もう一つのブログ、
長いこと放置してる間にFC2IDのなんたらかんたらで入れなくなってしまった…

あ、いやそれを乗り越えたから今こっちには入れるんだけど、
色々やるのめんどくさいなーと。

書きたい話題はあるんだけどな。
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2010.10.31 10年
10月31日が終わる前に。




今日で10年。
あの日からもう10年。

早かったなぁ。
あの時、ダッサイ制服来てた私も、
今やおばさんです。


10年たって、やっと文字によって想いを伝えてくれた。
今まで一言も、一文字さえも話に出されなくて、
なかったことにされてしまうんじゃないかと、不安で。
でも、そんなはずはないんだよね、もちろん。
10年分の言葉を、ありがとう。






トトロの見える大人にはなれなかった。
でもこれからは、大人になろうとしているこども達が
純粋な気持ちをもったまま、
「トトロの見える大人」になれるように、教師という立場からがんばる。


ありがとう、華月。
ありがとう、有紀。



想いは、風化しない。
新年
あけまして
おめでとうございます!
今年も懲りずに
よろしくお願い致します。




いやー、ということで、ねぇ。
2009年になってしまいましたよ。ホントもう、どうすりゃいいんだか。
まぁでも私はきっとこのまま、相も変わらずグダグダと生きていくと思います。
こんな感じでここも続ける予定でいますので、
今年もどうぞよろしくおねがいいたしますです。














... 続きを読む
2008.11.16 長文
どうもみなさんこんばんわ。
今日は、こんなところには書くべきでないことを書こうと思います。
書くべきでないとわかっているのならば、書かなければ良いんだけど、
それでもこのブログのある意味は、私がここで思いの丈をぶつけたり、
書き散らすことで発散したり、すっきりしたり、考え直したり、見つめたりすることなので、
書かせていただこうと思います。
長いですが。とにかく長いですが。長すぎて読んでも読んでも終わりが見えませんが。

では・・・






今、私の母が、命について油断できない状態にいます。


先週の土曜…と言っても、もう次の日になって3時間ぐらい経っていましたが。
仕事をしながらうたた寝をしていた母が苦しみ始めたところを父が通りかかり発見しました。
トイレに行きたくなったのか、それとも何となく母の異変に気づいたのかは本人にもわからないそうです。
普段から頭痛の酷い母が、いつものように「頭が痛い」と言うので、いつもの通り薬を差しだしたけれど何だか今日はおかしい・・・薬も受け取れないほど「頭が痛い」を繰り返しているというのです。
そのうち「気持ちが悪い」を言い始めたと言います。
医療マニアというか、まぁその手のことに詳しい父はすぐにヤバイ!と感じたらしく救急車を呼びました。
弟は起こされ、私はバタバタし始めた雰囲気を察して部屋を出て、猫はしっぽを太らせ、全身の毛を逆立てていました。
猫を抱きしめると、小さな心臓をドキドキ言わせながらしがみついてきました。
母は相変わらずうわごとのように「あたまいたい」を繰り返しながら変な呼吸をしています。
そのうち口から泡のような物が出始めました。

救急隊が到着したのは3時15分頃だったでしょうか。
こちらの焦った様子に比べ、とても落ち着いていました。むしろ、ちょっと急いでほしいぐらいでした。
血圧を測ると200もありました。
普段から高血圧を検診などで指摘されていて、気をつけてはいたけれど具体的な治療などは出来ずにいました。

救急車が我が家を出たのは3時30分頃です。
救急車には父が同乗しました。私は自分の車で救急車を追いかけました。
猫と祖母を同時に扱える弟を留守番にしました。

病院に着くとすぐに検査が始められました。
…長い長い待ち時間の始まりでした。
廊下の椅子で、ただ黙って待ち続け、誰かが通る度にドキッとし、また待つ…
新聞屋さん、売店のパンの配達の人、休憩に入る看護師さん、眠れずに起きてくる入院中の患者さん…
全ての足音に神経を募らせてしまいました。
父はメソメソと泣き始めました。きっと父には罪悪感があるからでしょう。
こういうとき、真っ先に泣き始めるはずの私は、泣くわけにもいかず、ただただその空間に耐えていました。
4時半頃までそれを繰り返すと、先生に呼ばれました。
「くも膜下出血で間違いありません」
という言葉と、これからカテーテルを注入し、その原因を探るということの説明をされました。
普段から体調も良くないし頭痛も酷い母でしたから、家族はいつだって覚悟をしてきました。
『いつかくる、いつかきてしまう』
でもそれは、きっと脳梗塞だと思っていたのです。
まさかくも膜下出血とは…思いもよりませんでした。
今、私が勤めている学校の去年の校長先生は、くも膜下出血で突然亡くなりました。
マリスミゼルのKAMIもそうでした。
名前忘れてしまったけれど、お笑い芸人にもいました。
そんなことばかり、私の頭にはよぎってしまいました。

カテーテルで検査をしている間は、ICUの家族控え室という、5畳ぐらいの畳の部屋を貸し出されました。
テーブルと座布団があるだけで、窓も何もない部屋でした。
この時点で5時少し前。
私と父は畳の部屋に座り、疲れから少しウトウトはするものの、何か物音がすればすぐに飛び起きる、という時間を過ごしました。
ケータイが鳴り続けても、何が起こっても起きない私が、小さな足音や、医療機器のアラーム、遠くの扉の開閉音だけで目を覚ますなど、普段からは考えられないことでした。

6時半。
看護師さんにカテーテルの検査が終了し、先生から説明があるからと呼ばれました。
先生からは、とにかく「危険な病気」であることを説明されました。
くも膜下出血は3分の1が死亡してしまうそうです。
次の3分の1が後遺症を抱えて生きていき、最後の3分の1は社会復帰、となっているそうです。
無事に命が助かっても、一週間以内に合併症を引き起こす可能性があり、そうなった場合、更に一週間以内にまた命を落とす可能性が生まれるそうです。
今、出来ることは手術をして出血の原因を阻止すること。
しかしその手術も、リスクは高いということ。
目の前に突きつけられた現実でした。
父は「今こうしている間にも本人は苦しんでいるのだから、少しでも早く手術をして楽にしてあげてくれ」と言い、私に「それでいいよな?」と同意を求めました。
私は基本的にマイナス思考な人間です。そんな説明されて、不安にならないはずがありません。
でも、うなずき同意を示す以外には何も出来ません。

準備ができ次第、手術を開始するので、家族はまたこの控え室で待ち続けるように言われました。
脳と心臓の手術の時は、家族は付きっきりで待たなければいけないらしいです。
でも私は一度家に帰り、弟をつれて戻ってくることになりました。

7時半少し前。
家に帰ると部屋はあのときの惨状がそのままに残っていました。
弟を車に乗せ、病院に戻ります。
外はだんだんと明るくなってきていました。

手術は8時半開始に決定しました。
終わるまでは、また、何もない控え室で待ち続けなければなりません。
弟はレポートの提出が迫っていたので、控え室でひたすら下書きをしていました。
私と父は、少し横になって寝たり起きたりしていました。
前日の晩ご飯をきちんと食べていない私は、不思議なことに、お腹はすいてグーグー音を立てていても、何かを食べたいという気持ちにはなりませんでした。
職業柄、私はここで母が開けた大きな穴をどうするのかが気になって仕方がありませんでした。
きっと母もそれが一番のネックになってしまうことでしょう。
母はとにかく仕事を抱えています。母にしか出来ない仕事を沢山抱えています。
それをどうするのか…とにかく気になってしまいました。
そんなことより、母の心配をするべきなのに。

長い長い待ち時間でした。
実はこの日の夜、私と母は共に出かける用事がありました。
それはもう半年以上前から、母がずーっと楽しみにしていたものでした。
けれど勿論、行かれません。
その件を、その用事に関わる人に連絡したり、母の学校の校長先生に連絡したり、私の学校の同じ学年の先生に連絡してみたり。
また弟が夕方から家庭教師のバイトがあるため、そのテキストを見ながら数学の問題を解いてみたり、全然関係ない話をして気を紛らわせたり、
本当に長い時間でした。
それでも確実に時というのは流れていて、1時間1時間、止まることなく進んでいきました。

手術が終わったのは16時過ぎでした。約8時間に及ぶ手術でした。
手術について、今後の治療について、先生から説明がされます。熱心な先生でした。
とりあえず「成功」と呼べる手術であったということで、本当に安心しました。
ただ、朝も説明されたとおり、命についての油断は出来ない状況です。
これから二週間、いつ電話で呼び出されても良い状態のまま過ごさなければなりません。
それでも、命があること。命を救っていただけたこと。
感謝せずにはいられませんでした。
術後の母は、意識は朦朧としていましたが、手足の麻痺はみられないようでした。
でも、あまりに普段の母からかけ離れてしまった姿に、直視が出来なかったのが本当です。

病院を出たのは17時過ぎていました。
そとはまた薄暗くなっていて、朝と同じぐらいの明るさでした。

とにかく、助かった。
それだけが救いでした。

夜、いつも辛いことがあったらぶつけている、同じ学年の先生に電話をしました。
電話しておいでって言ってくれたから。
「いいよ、なんでも話しな。」
って黙って聞いててくれるから、3時からの出来事を全て話しました。
やっと、涙が出ました。
涙が止まらなくて…私の口からは
「おかあさんが死んじゃうと思って怖かった。すっごい怖かった」
という言葉が出ていました。それが、本音というか、一番の気持ちでした。

翌日、校長教頭・学年主任に報告しました。
学年主任は話を聞くなり第一声「だいじょうぶだよ」と言ってくれました。
母より3才ほど年上の学年主任は、そうやって暖かい言葉で励ましてくれました。
教頭は母のこともよく知っているし、祖父の教え子です。
とても心配してくれて、今でも毎日私に容体を聞きます。
いつまでも仕事をしている私に「早く帰って顔を見せに行きなさい」と言ってくれます。
電話で事情を全部聞いたその先生は、それでも笑顔で授業をしなければいけない私に
「プロって辛いな」と言いつつ、休み時間ごとにケータイを確認する私に「頑張れ」と声を掛けてくれました。




一週間、私も仕事と病院の行ったり来たりでした。
病院に行ってから仕事に戻ったり、仕事の帰りに寄ったり。
仕事で辛いことがあって疲れて病院に行って、母の様子が全く良くなっていないと本当に悲しかったです。
母の記憶がめちゃくちゃで、ちぐはぐな会話しか成り立たなかったり、
私が行くことで母が興奮してしまい、体を起こしてはいけないのに起き上がってしまって看護師さんが飛んできて怒られたり。
私は行かない方が良いんじゃないかって、何度も思いました。
あとホントにしんどかったのが、私が病室で貧血を起こしてしまうこと。
最初の3日間はICUに入ると必ず貧血を起こしかけて気持ち悪くなり、座って何とかしのいでいました。
おそらくICUという、生きるか死ぬかの状態の人が集まった空間特有の緊張感を勝手に背負ってしまっていたからでしょう…ね。

今は、順調です。順調なのが逆に怖いくらいです。
本人の持ち合わせていた体力なのか、先生も看護師さんも驚くほど元気で、
ただまだ少し記憶がめちゃくちゃなところがあるのですが。
うまくいけば、もうすぐICUも出られます。
ただ、まだ「油断できない」2週間は経ってません。だから、気をつけなければならないのだけれど。


去年、私には時間に少し余裕があったので、家事をよくやっていました。
でも今年は、酷いときには朝7時から夜10時半まで学校で仕事をしたりしていて、
全くと言って良いほど、やれませんでした。
同じように、いや、私より本当は大変なはずの母に全部やらせました。
絶対にそれが母にとって負担で、
だから今回のことは、私のせいだといっても過言ではないところがあると思うのです。
すごく反省しています。
あの日、父の発見があと少しだけ遅かったら、母はそのまま冷たくなっていたことでしょう。
そうなってもおかしくないことを私はしでかしてしまったのです。
そうなっていたら、私は悔やんでも悔やみきれないし、謝っても謝りきれなかったでしょう。

おかあさん、ごめんなさい。
今、病院のベッドで、沢山の管につながれているのは、きっと私のせいです。
休める状態でない仕事を、こんな形で休まなければならなくなったのは、きっと私のせいです。
ごめんなさい。
私、もう少し良い子になるから、
早く試験受かって、本採用になるから、
だから早く良くなってください。
また一緒に、観劇しに行こう。
おいしいパスタを食べに行こう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000005-dal-ent

早すぎると思う…。

深浦加奈子さん、大好きだったんですよね。
特に私が覚えてるのはナースのお仕事、かな。

それ以外にも、やっぱり出てると目を引いたなぁ。
シリアスなものも、コメディタッチなものも出来たし、
意地の悪いおばさんの役も、暖かい優しい女性の役も出来る人だし、
とにかくこうして、「名脇役」がこの世を去ってしまったことが、悔しくてならない。


ご冥福をお祈りいたします。
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